2009年11月19日木曜日

保育園での恵み

その1<赦す>

 この4月から時間外保育士として、保育園で週5日、夕方の2時間を子供たちと遊んで過ごしています。その中のH君は、心の向くままに動き、みんなを困らせます。突き飛ばす、ひっぱる、取り上げるなどをされたら、「嫌だよ、やめてね」と言うように促します。子供たちは、泣きべそをかきながらも、そのままを伝えます。「ごめんね」の返事とともに、「いいよ」と赦しています。それが、日ごとにくり返されていますが、H君は仲間はずれなんかになりません。子供たちのように、赦して、回復して、また遊べるのは奇跡のようです。「子供ってすごい!主よ!私もこうありたいです!!」

その2<ひざの上>

 次男を、ひざ立てをした上に座らせてお話をすることを卒業して8年ぐらいになりますが、再び、あのぬくもりを感じることができ、とても得をしている気分です。今はたいていが、泣き出した子のお話を聞く時に、ひざの上に抱き寄せます。気がすむとストンと降りて、みんなのところに戻って行きます。その後ろ姿を見送りながら、私も一緒に元気を回復したように感じます。私にも同じようにして下さるイエス様、ハレルヤ感謝します!!

「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」ルカ18:17(聖書)  K.T.

2009年9月19日土曜日

ジェットコースターからコーヒーカップへ

みなさんは、子育てを楽しんでいらっしゃいますか?
子育てって山あり谷あり。一時のことだと自分に言い聞かせながら、果てしなく長い道のように感じてしまう。ちょっとしたことで一喜一憂し、なかなか休まりませんね。
私には中1の男の子、小5の男の子、小2の女の子がいます。21才で母親になったために他の保護者とは10才も離れていて「若い親だから・・・」と言われないようにかなり厳しく子ども達を躾ていました。もちろん子ども達を愛していましたし、子ども達の将来を考えて躾ていたつもりでしたが、実際は周りの目を気にしてばかり。毎日がジェットコースターのようでした。ジェットコースターは乗ったが最後、嫌でも翻弄されます。
今から8年前、長男が年中さんの時にしばらくぶりに教会へ通いだしました。 教会には赤ちゃんからご年配の方までと幅広い年代の方々がいます。 母親の先輩達から失敗談や成功談を聞いて感心したり、力や知恵をいただいたり、私の子ども達より少し大きい子に子どもの気持ちを聞いて軌道修正させてもらったり。
 今、私の子ども達は、日曜日が待ち遠しいようです。教会の中で幅広い年代の方々と関わり、甘えたり、叱られたり、労わったりとのびのび過ごしています。
また、このような関わりの中で、子ども達を育てているのは私だけじゃなく、教会の方々やイエス様である事に気付きました。そしていつのまにか、ジェットコースターからコーヒーカップに乗り換えていました。コーヒーカップは、自分でハンドルを回さなければ優雅なものです。私の意志に関係なく動くことに変わりはありませんが、景色を楽しむ余裕もあります。

私たち家族が、イエス様や教会の方々の温かいまなざしに包まれていること。
これが、ジェットコースターからコーヒーカップに乗り換える秘訣だったのでしょうね。(M.N.記)

2009年6月22日月曜日

敗北宣言

 まだ神様を信じる前、子供たちのランドセルには、神社で買ったお守りを付けていました。私は、ふと不安になりました。このお守りは子供たちを守ってくれるのから・・・?それまで疑問に思っていなかったことが、急に気になって、信じられなくなってきたのです。
 子供たちの事件・事故はたくさんあります。どの子も皆、大切に育てられ、かけがえのない命で、たとえば神社へ行き、お守りを買ってもらったりしたことでしょう。なのにどうして?良いことをすれば長生きできるでしょうか。神社で拝めば助かるでしょうか。子供を守ってもらえるという確信は、何一つないと思いました。
 その頃、聖書を読み始めました。私にとってそれは、まさに真理でした。『今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。(申32:39)』―本当の神は、自分にとって都合のいい神様ではありませんでした。『神にとって不可能なことは一つもありません。(ルカ1:37)』という、絶対的な神でした。どう頑張っても自分の思うようにはならないし、生も死も神に支配されていると感じました。敗北宣言です。
 そして神様は自分勝手に生きていた自己中心の私を、主イエス、キリストによって救い、喜びで満たしてくださいました。
 今はもうお守りは必要ありません。神様に全てを委ね、全てを祈るのみです。委ねきれないところも多々ありますが・・・。そんな信仰の弱い私とともに祈ってくださる兄弟姉妹に、感謝します。そして、これから信仰の友となるかもしれない方々へ・・・よろしくお願いします。
『まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。(マタイ18:19)』 (Mika記)

2009年6月4日木曜日

一切をゆだねて

 長女の出産の折り、予約した病院は分娩室も病室も満室で、私は新生児室内のベッドで助産婦の介助だけで出産しました。出産後すぐに赤ん坊と共に、別棟にある院長自宅の床の間のある部屋に寝かされました。私は出産の疲れも忘れて隣にいる珍しい赤ん坊に見入っていたところ、その小さい顔がみるみる紫色に変わっていくのです。付き添っていた実家の母が驚いて病院に駆け込み助産婦さんを呼んできました。口にビニール管を入れたり、逆さまにして背中をたたいたりして水のようなものを吐いた娘は、ようやく少しずつ赤みを取り戻していきました。 
 出産の興奮もさめない私が、目の当たりにした「死ぬかもしれない」という恐怖は全身の血を逆流させ。皮下出血の斑点が出て、眠ることができなくなってしまいました。
 その時母が、「どんな生死も人が決めることはできない。その子にふさわしい生命が与えられているのだから、短ければ短いなりの意味がある。決してあなたのせいではない」と私に話してくれました。自分の力ではどうしようも無いことがあると感じた始まりでした。
 三人の子どもに恵まれましたが、長女と長男は漏斗胸の手術、次女は川崎病と普通の人がしないような病気と手術もしました。しかし、長女が看護婦になりたいと言い出した時、弟妹と共に病院通いの多かった事も決してマイナスでは無かったことを知りました。ベッドや布団の上で親が出来ることは本の読み聞かせぐらいでしたが、おかげで三人とも本が大好きになりました。
 「布団遠足も面白かったよな」と最近こども三人集まった時息子が話してくれました。病気で遠足にいけない子供に、行く時と同じようにリュックにお弁当やお菓子をつめて、布団の上で旅行記などを読んでやるのです。お昼になると、リュックからシートを取り出して布団の上に敷いてお弁当を広げて食べます。雰囲気だけでもと思った親心はしっかり受け止めていたようです。
 当時の私は、一切をゆだねる対象が神様だとは知りませんでしたが、その気持ちがあったからこそ、どんな環境にあっても希望を持って知恵を働かせる事が出来たように思います。 (M.H)

2009年5月30日土曜日

私は牛飼い

 先日子牛が生まれました。雌だったのでこの牛が一人前、否、成牛となって働き出すのは2年後からです。順調に育って15ヶ月で種付けし、それから9ヶ月で出産、計24ヶ月かかるわけです。
 牛の場合も生まれ落ちたその時から細心の注意と折々の世話が必要となってきます。まず臍の緒の処理(切り口をヨード液などで化膿予防)、早く抵抗力をつけさせるため速やかに母乳の給与。そして一週間で人工乳に慣れさせ一ヶ月で乳離れ。その後は、良質の草を主体に穀類の配合などで体重にあわせ、たんぱく質、養分、総量を増加してゆきます。
 6ヶ月~12ヶ月令は、特に過肥に注意しながらどんどん食い込ませ腹を(胃袋を)大きくし、同時に運動も十分させて足腰を丈夫に強くさせます。この時の健康管理がその牛の将来の働きを左右します。
 すべてが健全ではじめて、繁殖も泌乳も、その牛の機能を十分に発揮するのですから。
 『主は私の羊飼い』
 詩篇23篇の御言葉は本当に私をどんな時にも平安な思いにしてくれます。完全なる主ご自身が“私の羊飼い”であるとは!!
 全能の主ご自身が私を管理していてくださるとは!!!    (T.N)

2009年5月22日金曜日

わが家の日記

 その1  わが家では結婚した当時の牧師の勧めでテレビを見せないで子育てをすることに決心し、実行しています。その後、長男の5歳のときから週に1回ウルトラマンの番組だけは見ても良いことにしました。情報は絵本とテープ・CDで得なくてはならないので、本をよく読むようになり、寝る前に2.3冊の本を読んであげるのが習慣になりました。また二人ともブロック遊びが好きです。
市の図書館で毎週5冊絵本を借りてきます。紙芝居も借りてきて、気に入ったものは何回も読んであげます。特に3匹の子豚のお話は好きです。最近、長男が次男にお話を読んで上げている姿に驚きました。
 仕事が忙しかったりして、なかなか遊んであげられない減点パパですが、絵本を読む楽しい時間を共有した体験が、これからこの子たちの人生の内的な原動力となってほしいというのが、父親の願いです。
 その2  「次男が入院しました。」職場に電話がかかってくる。「またか。アーア」1歳半から2歳までに5回、その後も4歳になるまでに4回、喘息発作のため(時には肺炎も併発)入院した。妻は毎回付き添って点滴治療の日々(同じベッドで寝起きするので大変)。家族全員の忍耐の日々は1週間から十日ぐらい続く。いたって丈夫な長男は妻の実家にあずけられ、幼稚園を不本意にも休まざるをえない。次男のカルテは分厚くなって、担当医や看護婦さん達に「また帰ってきたの!」と言われ、有名になってしまった。・・・その後4歳を過ぎて約半年の現在、危ない時もありましたが、かろうじて入院をまぬかれています。祈りと願いに答えてくださる神様に感謝しております。
 -聖書の言葉ー
 主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は。弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのである。   第Ⅱコリント 12章9節         (S.T)

2009年5月14日木曜日

そのまんまで愛してくれたから

 「大草原の小さな家」のようなクリスチャンホームが私の夢でした。でも、実際は大きく違っていました。長男はとにかくじっとしていられない子で、教会の礼拝中はいつも肩身の狭い思いをしていました。次男はもっと大変でした。小学校に入るまで、喘息があり、夜はあまり眠れませんでした。その上、昼間はいたずら放題。とても子供をかわいいいと思う余裕はありませんでした。
  ある時、同じクラスのお母さんが近くの神社のお祭りに連れて行ってくれると言うので、拝ませないよぷにと言ってお願いしました。30分もたたないうちに帰って来て、様子がおかしいので聞いてみると、神社の下に並んでいる車の上に二人並んでおしっこをしたらしく、早々に帰って来たのだそうです。「何でそんなことをしたの?」ときくと「虹が見たかった」と言っていました。また、ある時は近所の農家から電話があって、庭につないでいた犬に向かって「鬼は外」と言って洗濯バサミをぶつけたらしく、菓子折りを持って謝りに行きました。その他数え切れないほど謝りました。理想と現実のギャップにも悩みました。
 でも、神様は、そのまんまの私たちを赦し愛して下さっています。聖書に、愛するお手本がありました。神様はどんな人をも、そのままの姿で愛し、受け入れて下さいます。そのまんまで、子供を受け入れることが、子供を愛することだと気がつきました。それからは、謝ることが苦にならなくなりました。
 「謝ることが子供を守る」が私の子育て標語になりました。今は、次男も中1になり、謝ることもなくなりました。そしてそんな次男が1番私に学校や友人のお話をしてくれます。
 まだまだ、子育て真っ最中ですが、途中はともあれ、神と人とに愛される子に育ってくれればと願っています。 (N.O記)

2009年5月7日木曜日

友情

 私の下の息子の苦労話を少し書きます。現在42歳と38歳ですが小さい時の事が昨日の様に思い出されます。長男はスマートに物事をこなしていきましたが、次男はスローペースでした。それに準肥満体で体育が一番苦手でした。3年生の冬の寒い日、暗くなっても帰宅せず心配になり学校に電話を入れました。受け持ちの先生は『今帰りました。彼は逆上がりが出来なかったので出来るまで練習をしました。友達も一緒に残ってくれがんばりましたよ」と言われました。又、6年生の運動会の時です。1500メートルの持久走に自己志願しました、彼はどんなつもりなのでしょう。何週も遅れるのは目にみえているのに・・・。
 しかし彼は早朝マラソンから始めました。六時に起床、町内一周を毎日運動会の日まで続けました。当日最後のハイライト1500メートルの持久走。6年生の精鋭が並ぶ中に肥った彼がいるのですから私はハラハラドキドキです。『神様無事に走らせて下さい」と祈るばかりでした。
 人影からそっと覗いていました。スタートからどんどん話され最後は2,3週遅れていましたが独り走り続ける姿にクラスメートが飛び出してきて『ガンバレがんばれ」とエールを送り、最後は共にゴールまで走ってくれました。いい友達に恵まれ完走することができたのでした。私は神様にお礼を申し上げました。彼が完走できたのも又、友の助けによるものでした。その後社会人になってさまざまな困難に面し頑張れるのは、子供の頃の暖かい友情によって育まれた結果だと思います。 (H.S記)

2009年5月1日金曜日

友よ今幸せですか?

 人生の何たるかも知らなかった中学生のときの私達の誓いを覚えていますか?「10年に一度会っても親友でいよう、いつ会っても今が一番幸せと言おうね。」50年も生きていると、つらいこと悲しいこともあったけれど、神の愛を、神さまは常に最善をされることを本当に信じるなら、今も幸せ、明日にも希望があると言おうね。
 『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。(Ⅰテサロニケ 5:16~18)』私の好きな聖書の言葉です。人は触れるものに似ると聞きました。いいものに触れ、いつも最善を心に描き、前向きに肯定的に生きるのが魅力ある人生の秘訣だそうです。何ができるとか何かを持っているとかではなく、ただ生かされている今を感謝し、美しいものに感動し、心に喜びを持ち続けることができたら、それが幸せで、それが生きる力となるのではないかしら。
 私は今幸せです。多くのろばの子達が私に幸せをくれるんです。最初来たときは泣いていたろばの子ちゃんが、私を見上げて顔いっぱいに親愛の情を込めてにこにこ笑いかけてくれたのです。私に抱っこさせてくれたのです。おんぶされていた子が歩けるようになって、ごはんをちょうだいと大きく口を開けるのです。ママではない私に。彼らの目は何かを追って輝き、いつの間にか多くのものを吸収しています。彼らの成長には本当に感動すら覚えます。自分が奉仕していると思っていたのに、実は小さなろばの子ちゃん達からたくさんの幸せをもらっていました。ろばの子ちゃん達ありがとう。ろばの子を育ててくれているお母さん達ありがとう。バアバはただただろばの子達がかわいくて甘やかしたり間違ったことをしてしまうかもしれません。ろばの子はすぐに大きくなります。一時のこととして許して下さいね。
 友よ、私は今少し肩の力を抜いて安らぎがあり幸せです。又会う時も、「神さま、『あなたの恵みは私に十分です。』(Ⅰコリント12:9)」といいましょう。    (T.O)

2009年4月29日水曜日

子育てによく効く薬

 そんな薬があったら、すぐ使ったことでしょう。「子育てに良く効く薬」は「よく聞く薬」。これはよく聞く言葉です。いざ自分の手に負えないことを子供がやると、親は理性を失い、自分の意見を押し付けたくなります。どんな良い育児書を読んだり、教育講演を聴いて理解したつもりでも、現実はそうは行きません(私の場合)。
 最近、雑誌「百万人の福音」の”子育てはわずらわしい?!”の特集記事の中に「心底聞いてくれる人を持っている人は本当に幸いです。」と書いてありました。一人で悩んでいないで、子供を持つ友と話している間に解決が得られる場合が多々あったように思います。
 最近、高級官僚の汚職、自殺をよく耳にします。たぶんその親は苦しんでいることでしょう。しかし、ある時点までは子供を育てるのに成功した!と思っていたことでしょう。神様から見れば、人間は弱く罪を犯しやすい存在なのですから、子育てについても、失敗もあることでしょう。時々反省し、軌道修正したりしてやっていけばいいのではないのでしょうか。 
 私も子が与えられて30数年になりますが、まだまだ親子の関係はなくなりません。これからも色々なことがあるでしょう。その解決策は愛。聖書の中より知恵をいただきたいと思います。
 「愛は慣用であり、愛は親切です。また人をねたみません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じすべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」 Ⅰコリント 13章4~7節  (M.Y)

2009年4月24日金曜日

正しくなくても

 我が家の長男は丈夫な子で、医者知らずです。ところが次男は少し弱い子で、通院回数が多く、体質改善の薬も毎日毎晩飲んでいます。それを見ている長男は薬(シロップ)が飲みたくてたまりません。「僕にも」と口を開いて待っています。「これは風邪薬なの。お兄ちゃんは風邪ひいていないから飲まなくてもいいの」「少しだけ」「だ~め」などという会話をいつもしていました。
 あるとき、ユニケの会で読んでいる『小さなおうちからの贈り物』(片岡栄子著)の中で「毎日足に薬を塗ってもらう弟の水虫をうらやましがる兄に、水虫の説明をするよりは、根治水をぬってやったほうが納得したかもしれない。自分と同じほど愛されている者が他にいることで寂しいと感じさせるのはやはり愛情不足なのだろうか」を読んだ時、長男にも薬を飲ませてあげようと思いました。その日から弟が飲んだ残りを口の中に「チュッ」としてあげると「あま~い、おいしい」と満足した顔をしていました。私も「だ~め」を言わずにすんで気が楽になりました。これでもいいんだ、正しいやり方でなくても人に優しい方がいいなと思いました。
 その長男が最近、顔と首にカブレが出来て、初めて自分の薬をもらいました。「これは、お兄ちゃんのだからね」とそれはそれは嬉しそうでした。長男の顔に難航を塗りながら、案外このカブレは「神様からのプレゼント」かもしれない、と思うと顔のブツブツが急にユーモラスに見えてきて、涙が出るほど笑っちゃいました。「プレゼント?」と不思議そうな顔をしていた長男もつられて笑い出しました。(K.T記)

2009年4月23日木曜日

ごめんね

 カッとして小さな娘を叱ることがあります。つまらない小言を並びたてることがあります。そしてなぜあんなに叱ったのだろうと後悔することがあります。冷静になって考えてみると結局、娘に原因があるというよりも、忙しかったり,虫のいどころが悪かったりした自分に起因していることが多々あります。悪かったなぁとは思っても、親の変なプライドが邪魔をして、素直に「ごめんね」とはいえないものです。
 先週、めずらしく夫とけんかをしました。原因は犬も食わないことでしたが、口論になり、しばらく冷戦しました。一応、私が腑に落ちない気持ちを理性で封じ込めてその場をしのぎ、ある意味で平和が戻りました。ところが、翌朝、夫から突然「昨日はごめんね。よく考えたらやっぱりぼくが悪かった」とのおことば。自然消滅しかかっていた心が一度に癒されました。そして夫に対する尊敬と愛情も増えました。心のこもった『ごめんね』の優しさを肌で感じました。
 そんな後日、ささいなことで、娘にあたってしまいました。ーきっと傷ついているだろう。これは謝らなければいけない・・・。と思い「○○ちゃん、さっきは怒ってごめんね」と言うと、娘は「うん、○○もごめんね」と言いました。友だち同士の仲直りのようでした。心がほっとする瞬間でした。(M.Y記)

2009年4月20日月曜日

ろばの子のできたわけ

 今から約7年ほどまえのある日の事です。(*この文章は1999年に書かれたので1992年のことです)教会学校の幼稚科のM子先生とS子先生が話していました。

M子;あぁ、学校が始まって3ヶ月にもなるというのに生徒が一人も来ないなんて、何とかしなければね
S子;うん、そうだ、それなら待っていないで、こちらから捜しにいきましょうよ。
 
S子先生はすぐに小さな子供のいるお母さんにアタック。

おかあさん;私としましては幼稚園前の子供達のために普通の日に集まりを開いてほしいなぁと思うのですが・・・
「それだ!」S子先生はM子先生と相談して、教会が行っている幼児教室を捜しました。ちょうど折りよく横浜に見学会を開いている教会を見つけてさっそく出かけました。東京で2泊して横浜へ通った勉強会でした。
 それから浦和,久喜の教会にも見学に行きどうやら手探りですが、少しづつ形が出来上がっていき、名前もろばの子学級とつけました。
 試行錯誤の失敗だらけの出発でしたが、お母さん達に助けられ感謝でした。その中でも忘れられないのは、高橋牧師の「お母さんがんばって」の聖書のお話でした。先生は途中から病気(がん)になられお辛い時にあっても力の限り続けて下さり、94年1月28日天の国に帰って行かれました。短い間でしたが、本当に優しい笑顔で子供達をだっこしておられたお姿が今でも目に焼きついて離れません。
新年度の3ヶ月、私たちの幼稚科に生徒がきていたならろばの子は生まれていなかったのです。何とも不思議なことではないでしょうか。今、元気いっぱいに集まってくるろばの子さん達を見ながら神の祝福をそこに見る思いです。
 神のなさることは、すべて時にかなって美しい  (伝道者の書 3:11)     S.K.記

2009年3月9日月曜日

はなのすきなうしによせて

2月のろばの子のお話の絵本「はなのすきなうし」は1936年スペインの内戦のさなかに書かれました。国中が争いに巻き込まれている最中でしたので、フェルジナンドが他の牛と違って闘牛にはまったく関心を持たず、いつも牧場の片隅で花の香りをかいでいた姿は、平和を願う優しい心と重なります。
偶然のいたずらで闘牛場に連れ出されたフェルジナンドは見物客の歓声にも闘牛士達の必死の挑発にも動じないで、投げ込まれた花のかおりをいつものように楽しみます。自分にとって本当に大切なものを知っていてそれを愛し守り通します。そして、フェルジナンドが幸せであることを知って理解してくれるお母さん牛もとても素敵です。母として子供をせかさず、ゆったりと見守ることがなかなか出来ない自分に気づかせてくれます。神様がそれぞれに与えて下さっている良いものを信じて喜んで毎日を過ごしたいと思わされました。      

2009年2月27日金曜日

夕焼け空と母の顔

 昨年の夏(1998年頃)のことでした。家内は留守番をし、私と息子は群馬県の野反湖に2泊3日のキャンプに出かけました。私は初めての息子と2人きりのキャンプで少々不安がありました。息子の方も不安があったと思います。
 前橋・渋川を越えて西に曲がって草津方面に向かった時には、すでに夕暮れでした。夕日が山を照らし、空は茜色に染まっておりました。私は、車を運転しながら息子に語りかけました。「ほら夕焼け、きれいだね!」私は息子と自然の風景に共感を覚えたかったのです。ところが、息子の方は1テンポ遅れて答えました。「僕の目には、お母さんの顔しか見えない。」息子は意を決して母親を離れてきたのですが、他方ではお母さんのことだけを考えていたのです。
 キャンプ場に着いたのは夜中の10時過ぎでした。それでも息子はヘッドライトを付け、荷物を積んだリアカーを元気よく引いてテントを張る場所に向かいました。次の日もキャンプ場にいた他の子達と仲良くなって遊んだり、湖に飛び込んで泳いだり休日と自然を満喫していました。しかし、その夜、少し心細くなって、急遽、帰ることになりました。帰り道もまた母親の顔を思い浮かべていたかは分かりませんが、互いにほっとして家路につきました。
 このキャンプを通して、子供の成長の1コマを見る思いでした。一方では、親から離れて自立していこうとする心があり、他方では親との絆の中にとどまりたい、という心があります。その2つの心がほど良く綱引きをしながら、成長していくのだなと思ったのです。     (牧師 前野)